« これらの繋がりはどこかで繋がるのか | メイン | 高知遺産、第二版発売中(8/6改訂) »

2005年05月30日

●「形骸化」の現場

仕事場の朝礼の景。きっとどこのオフィスでも開かれているんだろうけど、ふと思うことがある。

 その朝礼は、毎朝部署員全員を集合させて「良いオアシス」の唱和、各担当からの報告などを求めて終わるのだが、自分の知る限りこの朝礼、8割は報告もなく20秒程度で終了する。もっと色々な対話や発表があればいいのに、それはなくて、ホントに毎朝同じ風景が続く。
 どうにもおいらはこういう「意味のない」「形骸化」したものや「今までこうしたからこれからもこう」というのが見え見えのモノが大嫌いらしくて、形骸化していることが分かった日から行かなくなった。こんな形だけのために時間を割かれるのはまさに時間の無駄だ。そのかわり朝の珈琲を飲んでいる方がよっぽどその日の仕事のためになる。まあそれは会社人としてはやっぱり失格なのだが。

 しかし、こういった場面において形骸化していることを訴えたところで、それを変えることには大変な労力を伴う。直訴して少し変わっても、1ヶ月もしたら元の木阿弥になったりして終わったりすることすら多い。結局、組織の形態だとか「○風」とか、根本的なところから変わらないことにはどうにもならない。組織というもの、それ自体がそもそも「形」でもあるものだし、そもそも仕方がないのかも知れない。だけど、ほんの少しでも意味がないと思ってしまうようなものであれば、せめて少しでも意味があると思うものに変えていかないと、結局そういうところから組織にしてもなんにしても腐っていってしまうような気がする。

 そんなことを考えていると、組織づくりって本当に難しいなと思う。人が集まれば必ず何かが固まりだして、そのかたまりを壊したり大切にしたりして組織は維持されていく。組織の立ち上げ当初にふさわしい人材、維持にふさわしい人材、改革にふさわしい人材・・・というものがあるのもまた確かで、設立当初にふさわしかった人材は往々にしてやがて脚を引っ張り出すし、改革にふさわしい人材は立ち上げ当初の人材をこきおろす。「形骸化」についても、そのシステム自体に疑問をもっていない人からすればそれを変えようとすることそれ自体がうざったい。そのシステムを維持することで組織が平和に維持できるのならそれでいいのかも知れないし。。。『良くしよう』という意識の空転がそこで始まる。ときに『この組織はなんなのか』という自問自答すらも。
 今自分が属する様々なコミュニティや、よく知る人々の属するコミュニティで、それぞれにこうした問題が生まれている。果たしてまだまだ解決の道は見えないが、兎にも角にも組織というものが何なのか、よーく考えていかないといけんなあと思うのであった。


百足館通信のランキングアップにご協力を。押していただけると少しだけおいらに元気が出ます。押したことないというそこの貴方は特にぜひ。