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2004年04月29日

●批評は是か非か【批評を嫌う人々】

かつて、あるフリーペーパーで書いた「ある書店」に関する記事が様々な意見を引き起こしてしまった。その記事は、高知市内でも最も大きいことで知られる老舗書店についてのもので、店舗面積の不遇によるものと思われる品揃えの悪さをとことん嘆いたものだった(特に専門書)。そして、本のセレクトを行っているのであろう店員の「顔」をもっと打ち出してほしいということを中心に、やや刺激的な形で書き起こしている。

基本的には大の書店数寄が「高知の一番店」である同書店にもっともっと頑張れという檄を飛ばしたつもりだったのだが、こうした文章に不慣れな人が意外と多かったのか、もしくは表層的な過激な言葉にばかり目を奪われたのか、「批判はよくない」「褒めて伸ばすことを考えるべき」「気分が悪い」といった拙文への非難がいくつか寄せられた。また、こうした批評を表に出すことの危険性(高知という狭い地域における『敵』づくりの危険性)について忠告をくれた人もいた。また、こうした非難や忠告がある一方で、その内容に「激しく同意」という意見を寄せてくれた人も多かった。新聞社やタウン誌にはない、フリーメディアとしての良さを生かした「辛辣な批評」をこれからも期待するとの声がその主な内容だ。
今まで、ごくごくマニアなフリーペーパーとウエブの世界の中で色々な文章を書いてきたが、この一文ほどに評価が割れた文章はなかった。また、「きわめて強い」非難を受けるということもこの一文がはじめてのことだったと思う。

非難する人に多かったのは、「批判からは何も生まれない」「いいとこ探しで済ませる方法はないのか」といった言葉だ。とにかく丸く納めることを考えるべきだし、また逆に自分が批判にさらされた時のことを考えるべきだと。
しかし、私は「批判をしなけりゃ何も変わらない」と思っている。「いいとこ探し」は誰でもできるし、「いいところを褒める」こともまあ簡単だ。でも、そんな「いいとこ」すら隠すような「いけてないところ」があれば、それを忠告することもまた必要な気がするし、また親切なような気がする。この場合の親切はあくまでありがた迷惑的なものでしかないかも知れないが、それすらも封じられてしまうとなんだか面白い町や店になんていつまでたっても変わらないような気がする。料理がまずい店があれば、でもその店が町にたった一つの店だったら、店主に「ちょっと味の素がきついんだけど」と教えてあげた方がお店のためにも自分のためにもえいやんか。

批評が嫌われる背景には、「怒ること、批判すること」や「議論すること」への妙な照れとか嫌悪感があるからかも知れない。また、他人は他人、自分は自分という意識もあるのかも知れない。人がやっていることには口を挟まないから、自分のやっていることにも口を挟まないでくれということかも知れない。そして、批評・叱咤激励と悪口・「馬鹿にすること」の境目が分からなくなっているのかも知れない。

コメント

批判するってまだまだ期待してるってことじゃん。
愛情の印っていうかさ。
自分は鬱飲み屋には批判する気も起きないのだ。

そうなんだよ。それが分からないというか、理解されにくい。文の拙さもあるだろうけど、批判する文への批判というのは、それはそれでまた自己矛盾だったりして。

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